tawagoto9776Kayama’s diary

60歳から1年後に会社を退職し、登山、ジョギング、キャンプ、料理等々の執筆を始める。

山登り 1 登山靴 (私の靴選びの失敗)

                                                                                                    61歳のたわごと No. 13
 登山を行うに当り、登山靴、トレッキングシューズは必須なアイテムである。
 近年の登山ブームにあやかり、非常に多くの海外の登山靴メーカーが日本に進出してきている。しかし残念なことに、中には足型が日本人にあわないものもある。
 今回は、高額な登山靴を購入したにもかかわらず、私の足にあわなかった登山靴の話をしよう。

 

  • 登山靴の概要

 私が登山を休日の趣味として楽しむようになったのは、40歳台の後半であるから、このこともあって、50歳台の初めの頃でも、自分で言うのも何であるが、熟練した登山者とは言いがたかった。

 

 初めは初心者が良く登る箱根の金時山(標高1212m)等々、神奈川県にある日帰りコースで比較的登り易い山々を登っていた。一般的に低山は標高が低いこともあり、コースが土の場合が多い。このため 防水性、透湿性を兼ねそろえたゴアテックス素材で覆われた靴ではあるが、靴底は比較的に柔らかいクッション材としてウレタン素材(ポリウレタン樹脂)を張りあわせた、比較的安価な(安価と言っても、1万5千円以上はするが)靴を履いて登山を行っていた。またこれで十分であったように思う。

  しかし徐々に標高の高い山にチャレンジしたくなるのは、登山者の常である。
私もご他聞に漏れず、神奈川県外の標高の高い山を目指すようになっていった。
 標高の高い山は頂上が近くなると、硬い岩でできたコースが多くなり、靴底のクッション素材もウレタン素材(ポリウレタン樹脂)では柔らか過ぎるため、硬い圧縮ゴムを使用した靴底の登山靴が欲しくなってきた。靴底が柔らかいと硬い岩の上を歩いたときには、その硬さが足に響いてしまい、疲れやすくなる。逆に私からすると、土の上では、硬い靴底では逆に足に靴底の硬さが響いてしまい、疲れ易いような気がする。(ある程度慣れであるとも思われるが)このためにも厚手の靴下を登山時には履く必要がある、と理解している。

 元々登山靴はイタリアなどの欧米の国々の靴が多いようで、いまでもかなり輸入された登山靴が日本でも販売されている。
 しかし残念ながら、すべての靴が日本人の足型に合わせて作られている、とは思いがたい。一般的には日本人の足は、足幅がヨーロッパの人々よりも広い人が多い、と言われている。私もどちらかといえば足幅が広い足のようである。

 

  • 靴選びの失敗

 ここからが私が靴選びを失敗した状況の話になるが、その当時私はある登山専門のショップに行き、何足か靴を履き比べていた。岩山を想定した圧縮ゴムの靴底の購入を希望した上で、何足か試しに履き比べたのだが、正直なかなか足にフィットする靴に巡り合わなかった。

 

 靴は、常識的には足親指あたりに多少余裕があるほうが良い、とされているので、厚手の登山用靴下を履きながらも、多少大きめの靴を選び、尚且つ日本においては良く知られたイタリア製の靴を選んだ。しかしそのショップにあった靴で一番大きくても、その靴でもまだ親指あたりが窮屈に感じたため、0.5mm程大きい靴を取り寄せてもらった。

 その靴がショップに届いてから、試しに履いてみたが、親指あたりにはそれなりのスペースが確保されたため、その靴が良いように思われた。しかし通常履く靴に比べて、横が多少きついように感じられたが、その靴がよりフィット感を重視した設計のようにその時は思われ、その靴の購入を決めた。

 今思えば、その横が多少きつく感じたのが問題であったように思う。
登山靴以外の靴ではビジネス用の革靴、ジョギング用の靴等々を今まで何足も履いていたのであるが、通常おそらくは日本人の足型にあわせて設計をされているのが通常のためか、または多少靴が履いているうちに足にフィットしてくる等々の理由から、今まで足に合わなかった靴には出会ったことがなかった。 これが、靴選びに対して疑念を抱かなかった要因であったようにも思う。

  しかしそのイタリアの登山靴メーカーの名誉のため言うが、靴の機能は申し分がなかなかった。岩や大きな石が連なるようなガレ場を歩く時の安定感は、流石であった。今まで履いていたウレタンのソールを使用した靴とは大いに違いがあった。
 
 その登山靴を履くときは通常通り、登山用の靴下を履くのだが、歩いているうちに、特に山を下る時に小指にあたり、痛くなってくるのである。
 高額な靴を何とか履けるようにしなければ元が取れない、と思いさまざまな工夫をして、何とか履けるように以下のような工夫をした。

1.  足の甲部分の靴紐を緩める
    靴紐の足甲部分の紐を緩めた。一般的に言って、基本足型が適切であれば、この後部分の紐を緩めることで、多少対応ができるはずである。足首から上の靴紐がきつくして、足首が固定されているのであれば、歩いていて特に問題が生じないように思う。足の甲部分の靴紐からきつく締め上げると、履き心地がわるくなる場合も在るので、甲部分紐はあまり強く締め上げないほうが、良いように思う。
しかし、私が購入下登山靴の場合はかなり緩めても小指がまだ、靴の側面にあたって痛かった。
(余談)
   最近は足の甲と足首の境目あたりに金具が左右に取り付けられており、この金具で靴紐が固定できるようになっている登山靴がある。
この機能は大変便利である。この機能によって、足の甲部分の靴紐がちょうど良い具合に調整された後、この金具によって、甲部分の紐が緩まなくなるのである。最近はこの金具がついている登山靴が増えてきており、この金具付きの登山靴を、個人的にはお勧めである。

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                                          写真中央やや部分にある金具で
                                         足の甲部分の靴紐を固定できる。

2.   靴幅を広げるため木片を入れる
   靴の側面を広げようとして、足の前部分に布を詰め込み、その上から
木片を押し入れて、靴の横幅が広くなるようにして、数週間程放置した。しかし、登山靴は頑丈にできているのであろう。横幅は広がったようには到底思えなかった。

 

3. 靴中敷ソールの前部分をカット
靴の中敷ソールの前部分をカットして、中敷ソールを土踏まずと踵部分だけ残るようにして靴の中に挿入した。その後、半分の中敷ソールを挿入した靴で、歩いてみたが、幾分状況は改善されはしたものの、まだ小指が靴側面に触れる感触があった。

 

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                                          前足部分をカットし登山靴のインソール

4.  白靴下と足サポーターを組み合わせ
    次に登山用の靴下を薄手の白靴下に替えて靴を履き、足幅に余裕が生じるようにした。これは効果があった。しかし薄手故に足に直接響くようで履き心地が良くなかった。この状況から、薄手の白靴下の上から、足の前部分と足の踵部分が省略されている、足のサポーターを薄手の白靴下の上から履いた。これで最終的にこの登山靴は違和感なく履けるようになった。また足のサポーターは、土踏まずを持ち上げる効果もあり、履き心地も悪くなかった。

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                                                 白靴下と足サポーターの組み合わせ

 

このようにして、今では岩山に行くときには、この靴での登山に出かけている。
参考までに、足幅が広い私が履いた登山靴のなかで、比較的に足にフィットした
靴のサプライヤーは、以下の通り。

  • シリオ:イタリアメーカーのように思われるが、日本のサプライヤーである。高級靴はイタリアで製作されている。靴幅に余裕のある靴を出していることで有名
  • ダナー:米国の老舗メーカー。登山を始めた初期のころに比較的低価格の靴を履いたが、そのころに登った低山は完全にこの靴で対応できた。
  •  ラ スポルティバ:イタリアメーカー。TJAR(富山湾から駿河湾までの山岳コース(415km)を走りぬけるレースで何度も優勝している、望月将悟選手が履いていることでも有名。最近日本の登山者にもかなり人気が高い。

   最後に、登山靴を選ぶ時には、専門のショップの靴担当者の意見を聞くことが
非常に重要であるが、購入するかどうかを決めるは自分自身であるので、自分
で登山靴を履いたときの感覚が、より重要であることを認識されたし。
尚且つ、他の分野の靴に比べて、海外メーカーがそのまま日本に輸入した登山
は日本人の足型に合わない靴もあるので、購入時にはより注意を払う必要があると思われる。

 

                                                                                                                    香川 潤(記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怖い話 4 あれはキツネ火だったのか?

                                                                                                61歳のたわごと No. 12
  初めはこの話は、記載するつもりがなかった。なぜならば、あまりにも不確実すぎて、ただ単なる何かの見間違いであったのかとも思えるので、別段“怖い話”に加えるのも行き過ぎている、と思ったからである。

   しかし、仙丈ケ岳頂上直下にある、仙丈小屋に2018年8月のとある日に泊まった時に、夕食までの時間がまだかなりあったので、小屋にあった本である、“山怪 山と渓谷社発刊 田中 康弘署“ を読んで気が変わった。

 その本である “山怪” の中の秋田県マタギの話によると、キツネに化かされた話や、キツネ火と思しき話が多数でてくる。このような話は単に何かの間違え、であるとするのは簡単であるが、この本によると、あまりにそのような例が多いので、むかしから言われているキツネによる怪奇現象なるものは、もしやなんらかの形で存在するのではないか、と私も思うようになってきた。

 話は私が経験した話に変わる。

 わたしの実家は小売商を営んでおり、ある日注文を受けた品を、母親と一緒に自動車に乗って届けに行った夕暮れ時の話で、私がまだ中学生になったばかりのことだったように思うが、すでに明確な年は記憶していない。

 注文の品物を届け終わったが、そのあたりは非常に寂しく、街灯の類はなく、人影も全くない場所であった。また左右は低い丘に囲まれていたことも記憶している。またそこは、何か気味の悪い感覚があったことを、今でも覚えている。

 その時は配達が終わり、自動車へと母親と一緒に戻る途中であったが、すこし離れた道の真ん中に “焚火” のような火が見えたのである。その火は通常の “焚火” と少し異なり、火の上の部分がやけにちぎれて、いくつにも分かれてゆらゆら燃えているのである。ちょうど上部分と下の部分の火が分離して上部分はいくつのもの炎に分かれて見えたのである。

  その場所に居た私は興味本位に、その “焚火” にもっと近寄り、その実態をもう少し詳細に把握しようとして歩み始めた、とその時に母親に手を捕まれて、「気味悪いから行っちゃだめだよ。」と言われ、その時はそのまま停車していた自家用の車に戻って帰宅することとなった。

 

  その後、ある中学生の同級生から、あの辺りには小さな白キツネが居た、との言い伝えがあることを聞いた。その話によると、その白い小さなキツネは尾が何本もあった、と言う。
  その小さな白キツネは、その地域に害を及ぼすたちの悪い人が来た時に、着ている衣服に侵入し、それが元でその人は神経に異常をきたすようになってしまった、と言う。

 

  その話を聞いた当時は、私は全くその話を信じなかったが、仙丈ケ岳直下の仙丈小屋で “山怪” という本を読み、また中学生のころの記憶が蘇った後に、にわかにその“小さな何本も尾がある白キツネ”の話を思い出した次第である。

 
                                                                                                                   香川 潤(記)

怖い話3 海岸の幽霊(61年程の人生で、体験または聞いた怖い話)

                                                                                                       61歳のたわごとNo. 11

 これは確か私が中学2年生の時のことであったと思う。
私の家は店で商売を営んでいた。母親も商売を父親とともに一緒にやっていたがため、子供4人の面倒と、家事全般まで手が回らなかった。このため、私の父親の実妹が、私の家に家事を手伝いに来てくれていた時期がある。

 この話はその親戚の叔母さんから聞いた話である。その叔母さんも父親と同じで、幼少のころから地元に住んでいて、その時までに至っていたので、地元での顔見知りが多く、ある地元の知り合いから聞いた話だ、と言っていた。

 その日、その叔母さんは息を切らして私の家に戻ってきた。そして私の顔を見るなり、話し始めた。その時に聞いた話は以下の通り。

 

 おととい、某お寺下の海岸で幽霊がでて大変だったそうだった。
夜中の12時を過ぎたころ、二人の男が居酒屋で酒を飲んだ後の帰り道だった。
 二人が某お寺の前あたりまで来た時に、一人が“用を足してくる”と言って、
海岸まで下りていった。そして“用を足している”その最中であった。

 「寒いから服をかしておくれ。」とその用を足している男の背後から両腕を回して、その男の両目を両手で目隠をしながら懇願した。

 当然その男は大いに狼狽し、目隠している両腕を振り払い、上で待っているもう一人の男のところへ急いで戻った。そして “用を足している” 最中の出来事を話したのであるが、上で待っていた男は信用するはずがない。

 しかし、その時二人は暗い海面上に、真っ赤な布切をまとった女性らしき姿が居ることに気が付いた。そう、後ろから両腕をまわし、目隠しをし、服がほしいと懇願した、その女性であった。
 その女性は海の上で浮遊しながら、両腕を頭の上あたりに上げて、二人の男に手招きをしていた。

 その後、その女性の幽霊が出たといわれた場所には、お坊さんが来てお経を上げ、供養のためのお札が立てられた。しかし今はその場所一体の海岸が埋め立てられ、道路が建設され、多くの家も建っている。

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50年程前の海岸。 左上の坂を上がり切ったあたりから、海岸にくだったあたりに、
女性の幽霊がでた、と言われている。

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                  現在の海岸

 

                               香川 潤 (記)

 

怖い話 2 自分の身体が下に見える

                                                                                                       61歳のたわごとNo. 10
怖い話 2     自分の身体が下に見える
(60年とすこしの人生で、体験または聞いた怖い話)


   これも私が自分の父母兄弟と実家に住んでいた50年以上前の話である。
私が小学校2年生のことであった。その日は何か体調が思わしくなかったように思う。明け方のことであった。ふと気が付くと、私が布団に包まって寝ているのが見える。
何故か、私は天井より多少下のあたりから、その様子を眺めているようである。ほんの数秒が経過したように思えた。その時、なぜか非常に怖くなってきて、自分が死んでいるような、奇妙な感覚にとらわれた。
  その瞬間に、布団の中にいる自分に気が付いた。その日の朝、そのことを母親に伝えたのであるが、悪い夢でも見たのだろう、と言って当然取り合ってくれない。その日の晩母親は、一緒に寝るように私に言った。

 

                                                                                                                   香川 潤(記)

怖い話1 オーブ?を見た

                                                                                                          61歳のたわごと No. 9
怖い話1 オーブ?を見た
(60年とすこしの人生で、体験または聞いた怖い話)


 まだ私が自分の父母兄弟と実家に住んでいた50年以上前の話である。


 私が小学校6年生のことだった。ある朝、歳の差9つの弟が6畳の畳部屋で一人寝ていたが、その部屋は襖と障子で閉められていたので、部屋の中は薄暗かった。
 私は障子を開けて、たまたまその部屋に入りまた部屋から出た後に、障子を閉めようとした時だった。ちょうど弟が寝ている上あたりの空中に、ひし形をした黒い形状の中に直径5cmぐらいであったろうか、何か円形上の白い物体が5個から6個ぐらいが浮遊しているのを見た。私は恐ろしくなって障子を直ちに閉めて、別の部屋に逃げ込んだ。


 しかし、もしかして弟がどうにかなっているのではないか、と思ったので、勇気を出して、もう一度その部屋の入り口である、障子を開けて中をのぞいた。その時にはすでに弟が寝ている上には何も見当たらなかった。

 何ヶ月かたった後、その6畳の部屋の天井裏を覗く機会があった。
 その天井裏のある部分の板が外れて開いていたのである。私と歳が5つ違いの兄とで、その開いているところから、首を突っ込み、その6畳の部屋の天井の中を覗いた。当然天井裏であるから、真っ暗であるが、その覗いたあたりから離れた奥あたりに、数ヶ月前に偶然見たあの白い円形状の物体が居た。その時に私の兄は「なんだろうな。」で済ましてしまったので、
 私もそのまま追及もせずに、開いていた板の天井板を閉じて、そのままにしておいた。その時はなぜか、恐怖感はなかった。

 

 通常、オーブ現象とよばれる水滴のような物体は、肉眼では見えずに、写真を撮った時に、白くぼんやりとしたものが映りこむことであるようだが、肉眼で見えるようなことは、あまり聞かない。別名玉響(たまゆら)とも言われているようであるが、私が見たものは何であったのだろうか。 今となっては確認ができないが――――。

 その家は現在、他の家族に貸している。
                                                                                                             香川 潤(記)

トランスジャパンアルプスレース(TJAR)4 ゴール


61歳のたわごと No. 8
トランスジャパンアルプスレース(TJAR)4 ゴール
 8月16日(木)午後にJR甲府駅に戻ってきた私は、来た時に予めコインロッカーに預けておいたテント、寝袋等々一式を取り出し、またバックパックに詰め込んだ。このテント、寝袋一式は、ゴールとなる静岡駅近くの大浜海岸で、8月16日(木)の晩一泊するためのものである。

   2016年の前回大会の望月選手が、ゴールした時と同タイム(4日と23時間52分)であれば、8月16日(木)の夜日付が変わる間際に(23時52分)に到着するはずであるが、今回は山岳地帯を通過するにあたり、相当雨と風に影響されたと思われるので、この時点でのトップ選手のゴール予想到着の時間は、8月17日(金)の夜になるのではないか、と予想していた。

 8月16日(木)の夜海岸でテント泊をした翌朝の8月17日(金)ゴール付近を散策していると、この地域ではTJARレースを盛り上げていこうとする機運が大いにあることが良くわかった。ゴールとなる海岸前の公園にはTJARについての説明を記述した立派な看板があり、またゴール直前の海岸の砂浜に至る入り口前には、選手を激励する幕が取り付けられている。

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                             大浜海岸前の公園になるTJARの説明する看板

 

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                                                   TJAR選手を激励する幕

 

   TJARの説明をした看板を眺めていると、様々な人たちが集まってきて、「望月将悟からサインを前回大会でもらった。」と言う人もいれば、「いつごろ選手はゴールしますか。」と聞いてくる人、または私と同じように、「富山の早月川河口でスタートを見てきた。」という人たちがいた。

   しかしGPSの選手位置情報によると、どうもさらにトップ選手のゴール予想時間が後ろにずれ込むようである。さすがに朝から早くともその日の夜遅くまで、その場で待っているわけにもいかず、その日の朝は自宅に帰ることにした。場合によっては今回ゴールを見ることは諦めるしたないかもしれない、とその時は思った。

   自宅に戻り、GPSで選手の位置情報を確認していると、仙丈ケ岳直下の仙丈小屋で休息を取っていた垣内選手が、8月18日(土)の午前1時を過ぎて1位でゴールしたようであった。(記録としては6日1時間37分でゴール)

 この状況が判った私は、「次の8月19日(日)に早めに大浜海岸に行けば、他の選手のゴールに立ち会うことができるかもしれない。」と思い、8月19日(日)の朝5時ごろまた自宅のある横須賀から静岡県の大浜海岸まで行った。いずれにしてもゴールのレポートが無いTJARのブログなんてナンセンスであることは間違いない。

 早朝にJR静岡駅に到着した私は、大浜海岸まで歩いて行くことにした。富山県
日本海に面した海岸から、駿河湾に面した海岸前まで走破する選手のことを考えると、タクシーを使用して、大浜海岸まで行くのが申し訳なくなった。(しかし歩いて海岸まで行ったため、約1時間歩く羽目になった、が交通費の節約にも寄与した。)実際に私と同じように私の前方には歩いてTJARゴールの海岸まで移動している方が他に1人いた。
 ゴールの海岸まで行くと、ゴール地点が、同じ日に開催されているビーチバレーの
コートの中間あたりを通過するような設定になっていることがわかった。長い距離を
相当苦労して走ってきた選手たちには、ちょっと申し訳ないような気がしたのは、私だけであろうか。

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                     ビーチバレーコートの間を抜けるとそこにTJARゴールが

 

 海岸に着いた時には、TJARのゴールを観戦しようとしている人が少ないような気がしたが、実際に選手がゴール地点近くに来ると、多くの人たちが集まってきた。
 私は3名の選手のゴールに立ち会うことができた。TJARのゴールを見ると、おそらくゴールした順位というよりも、ゴールしたこと自体に価値を見出す大会であるように、ゴールを観戦していて強く感じた。

 ゴールをした選手には、多くのサポートをしてきた家族、関係者がいることが、選手がゴールした時に良く判った。その上、ゴールする人たちの年齢が割に高い。おそらくは30歳後半から40歳以上であろうか。

 とにかく今回、TJARのスタート、仙丈ケ岳、ゴールの3か所で観戦する目的を果たせたことをうれしく思う。

 

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                                                        ゴールした有吉選手

                     

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                             ゴールした後でインタビューを受ける有吉選手

 

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                                                  有吉選手の関係者一同


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トランスジャパンアルプスレース(TJAR)3 仙丈ケ岳

61歳のたわごと No. 7
(前回61歳のたわごとNo.5と記載しましたが、No.6の誤りで、今回はNo.7となります。お詫び申し上げます。)


トランスジャパンアルプスレース(TJAR)3 仙丈ケ岳
 8月12日(日)に帰宅した後、8月13日(月)は待機して(別の私用もあった)、
8月14日(火)の早朝一番早い電車に乗り、JR甲府駅へと向かった。そこから朝9:05発のバスにのり、広河原までは約2時間弱、そこからまた北沢峠(標高2032m)までのバスに30分弱ゆられ、ようやく仙丈ケ岳の登り口にたどり着いた。すでに午後13:00を過ぎている。

 南アルプスで登山を頻繁にする人にとっては、釈迦に説法であるが、そうでない読者も多いにいると思われるので、仙丈ケ岳について多少説明を加える。またTJARにおいて、仙丈ケ岳がどのような位置付けにあるのかも、少々説明したい。

 仙丈ケ岳南アルプスの北部に位置している山の1つで標高は海抜3033m、南アルプスの中でも3000mを超えるとは言え、比較的登りやすい山ではないか、と思われる。私的には南アルプスの中では一番登りやすく、比較的危険な個所も少なく南アルプス登山デビューにはお勧めの山である。ただし、1日で頂上まで行き下りてくるのはかなり体力がいるので、頂上までの途中にある山小屋である、“馬の背ヒュッテ(標高約2600m~2700mの間?)”若しくは“仙丈小屋(標高約2900m)”に1泊するのがお勧めである。健脚な人の中には、北沢峠で宿泊し、翌朝に仙丈ケ岳、また次の日に甲斐駒ヶ岳(又はその逆)を登山する猛者がいるが、体力に相当自信がある人でないと、1日では登り切れない。

f:id:tawagoto9776Kayama:20180825095008j:plain                              仙丈ケ岳山頂、山頂直下に見えるのが仙丈小屋

 

 私は今回が2度目の仙丈ケ岳登山になるが、前回登山したと時は、運がよく快晴に恵また。天気が良いと、他の低山の登山時には観ることができない素晴らしい景色を拝むことができる。今回も馬の背ヒュッテに泊まった翌朝早い時間帯は、非常によく晴れていた。(写真は朝早い時間帯の仙丈ケ岳頂上付近)

 この仙丈ケ岳であるが、TJARにおいて後半の最後の難関である南アルプスの初めの山であり、ちょうど選手は仙丈ケ岳の頂上を通過する。その前にすでに、富山湾に面した早月川河口の海岸から、北アルプス中央アルプスと経て相当体力をすでに消耗しているはずなので、ゴールまでたどり着くため、多少の寄り道ではあるが、仙丈ケ岳頂上直下にある、仙丈小屋に立ち寄り食事及び、多少休憩をして、それからまた走り出す選手が多いはずである。

 

 前置きはこのくらいにして、私は今回初めに“馬の背ヒュッテ”に宿泊したが、この山小屋はカレーが名物である。どこの山小屋でもカレーはよく出されることがあるが、山小屋以外のレストランで食べたカレーと比べても確かに味が良い。(腹減って食べているからそのように感じることもあるが。)また山小屋周辺から見る、甲斐駒ヶ岳(標高2967m)の脇から昇る朝日は絶景である。

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                   馬の背ヒュッテ小屋脇から眺める朝日、左脇の山は甲斐駒ヶ岳

 

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                                                   早朝の馬の背ヒュッテ

 

 前述のように、馬の背ヒュッテを出た早朝は非常に天候が良かったが、朝だけ天気が良いのは標高が高い山ではよくある話である。案の定、仙丈ケ岳の頂上に到達してあたりの素晴らしい景色を堪能していたところ、急に雲に覆われ、お決まりの雨が降り出した。

 

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                                                 雨の降りだした仙丈ケ岳の頂上


 レインウエアを着ていても少々寒くなってきた。当初の予定では山頂で走ってきた選手を激励する予定であったが、雨が止む様子もないので、一度頂上から少し下りた頂上へ向かうルートと仙丈小屋に下りる分岐点まで下り、あまりに雨が強くなってきたら、今晩の宿泊先である、仙丈小屋に避難するつもりでいた。しかし情報によると、そろそろトップの選手が来る頃だった。(今回からGPSの発信機を各選手が持って走るので、各選手の位置が誰にでもスマホを操作すると判るようになっていた。)

   しばらくその場で待っていたところ、TJARの出場選手を応援する他の人たちも山頂から下ってきた。この方たちは女性で、“TJARを応援しています” 的な看板まで腰にまとっている人がいた。そうこうしている中で、写真にある、近内京太選手が登山道から現れた。

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                                 頂上と仙丈小屋分岐点にトップで現れた近内選手

 

 頂上と洗浄小屋までの分岐点にたどり着いたトップの近内選手は迷わず、仙丈小屋
へ、大会運営スタッフに付き添われながら下って行った。その後の選手がこの分岐点に来るまで、まだ時間がかかるようなので、私もいっしょにこの日の宿泊予定でもある仙丈小屋に行った。到着した近内さんは、カレーライスを食べ、多少くつろいだ後にまた、TJARのコースへと戻っていった。この雨の中ご苦労である。

 

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                                                    仙丈小屋入り口付近

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                      雨の中仙丈小屋から仙丈ケ岳に通ずるコースに戻る近内選手

 

 雨の中、仙丈ケ岳に通じるコースに戻る近内選手を見送った後、この地点で2位の垣内選手が、仙丈小屋に入ってきた。近内選手と同じく垣内選手がカレーを食べてくつろいでいると、今度はNHK記者が小屋に入いってきて、垣内選手にインタビューを始めた。その脇でそのインタビューの内容を聞いていると、膝が痛い。昨晩寝ようとしたが寝ることができなかった、等々、大変な状況の中で走っていることがよく分かった。
  その後そのNHK記者とも少し話をした結果、その記者はどうも雨と風の中、仙丈ケ岳頂上付近で、約3時間、選手が来るのを待っていたようだった。頂上付近の気温を考えると、相当寒かったことであろう。またNHKではこのレースの模様をTVにて放映する予定がある、とその時に聞いた。いずれにしても、選手だけでなく取材するスタッフの方々も相当苦労されていることが、良く判った。

 

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                  仙丈小屋ないでくつろぐ垣内選手(中央付近で座っている選手)

 

 その後にも選手が時折、仙丈小屋に時折立ち寄って休憩していた模様であるが、私は、というと小屋2Fでくつろいで、本など読んでいた。選手の境遇を考えると、情けない。しかしこの中で“TJARを応援しています”的な看板を掲げた女性グループは、熱心に小屋に寄っている各選手を、その都度激励していったようである。彼女たちに私はただただ、頭が下がる。

 その次の早朝起きてみたが、まだ雨が降りしきっている。風もあり外は寒い。
朝食を食べた後に、雨がかなり降ってはいるが、予定通り仙丈小屋から下山した。
 下山途中も山の稜線は雨、風が酷かったが、途中で珍しいといわれる雷鳥親子にであった。よく見ることが珍しいとは言われるが、実は昨日も仙丈小屋に行く途中で雷鳥にでくわしている。一説によると、“人間が居る近くがむしろ雷鳥にとって安全である、と理解し始めている“とも言われている。

 

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                                                      親の雷鳥が写真中央でいる。

 

 その後朝9:15分ごろに北沢峠に雨の中たどり着いたが、北沢峠から9:45発のバスで広河原まで行き、そこでまたJR甲府駅行バスに乗り換えた。山岳地帯から下ると、天候は晴れであった。山での雨がうそのようであるが、良くあることである。
 それからJR甲府駅からTJARのゴール地点となる大浜がある、JR静岡駅まで、
身延線の電車で移動した。8月16日(木)の午後であった。

 

                                香川 潤(記)